主題;「ビール事始め」について

 

 
 今年は空梅雨模様ですが、そろそろ梅雨明けです。

 種類・季節などに無差別主義の我が酒多杜李の会員諸兄にとって、「何時でも、何でも美味しいよ」という科白になるのでしょうが、やはり、冷えた「ビール」が、美味しい季節となってきました。

 人類における「ビール」の事始めはについては、本誌第66号「ビール純粋令について」の中で池端主幹が語っています。

 ビールが発見(?)された後、時の経過と共にヨーロッパにも広がり出しましたが、ギリシャ、ローマの地域はワインの地であったのであまり浸透せず、麦の栽培により適した中・北欧のゲルマンの人々に重用され、そのことが今日まで続いていることはご存知の通りです。

 人類の飲み始めは、この様な次第なのですが、我々の先祖がビールを飲み始めたのはいつ頃からなのか、また、ビールを作り始めたのはいつ頃から、などが気になり(今様の”トレビアの泉”にも入らない疑問ですが)、日本人の「ビール事始め」について調べてみました。


1.飲み始め

   私達の先人は、南蛮(ポルトガル、スペイン) 紅毛(オランダ)との交渉を持つようになって以来、ワインを飲む機会はしばしばあったようです。西国の戦国大名や堺の商人たち、新しもの好きの信長、そしてその後継者秀吉も、これを飲んだに違いなく、これが飲み始めです。いわゆる安土桃山と言われる時代の出来事です。そして、この習慣は静かに浸透し、江戸期の長崎出島のオランダ商館内や、通詞たちの家での饗応には、ギヤマンのフラスコ入りのワインがよく出されていたと記録にあります。

 京都の与謝蕪村一門の明和八(1771)年正月の歌仙には、
  「紅毛の珍陀(ちんた)葡萄酒ぬるみ来て」 炭太舐(すみたいぎ) 
 といった赤葡萄酒(vinho tinto)を読み込んだ句まで登場しています。

 一方、ビールについては八代将軍吉宗の享保九(1724)年、オランダ商館から持ち込まれ、建部清庵、杉田玄伯の『和蘭問答』に「麦酒(むぎさけ)給(たべ)見申候(みもうしそうろう)処(ところ)、殊外悪敷(ことのほかあしき)物にて、何のあぢはひも無御座候(ござなくそうろう)」とあります。

 酷いものだったのようですが、これが日本人が初めてビールを飲んだという記録です。享保九年と言えば、後に「享保の改革」と呼ばれ、日本の社会体質を変化させた様々な事業が展開されていた時代です。

 しかし、本格的に飲みだす様になったのは、幕末になり欧米文化と接触してからでした。「麦酒給見申候処、殊外悪敷物にて、・・・」と感想を述べてから136年後のことです。

 この年、安政七(1860)年正月十八日、幕府の第一回の遣米使節一行が品川沖でポーハタン号に乗込みます。その翌日、随員の一人、仙台藩士玉虫左太夫はまだ船が碇泊中の日の『航米日録』に、「ビールト云フ酒」のことを書き記しています。ただし、まだ自分が飲んだということではなく、船上では日に三回、太鼓を鳴らして「マトロス」(水夫)を甲板に集め、士官が一人一人の名を呼びながら樽からビールをわけてやるということでした。珍しい光景だったのでしょう。

 玉虫自身が初めてビールを喫したのは、出航後十二日目、二月三日(1860年 2月24日)に船上でアメリカの「開祖」ワシントンの誕生日記念のパーティが催されたときでした。ほんとうは二日前だったのですが、その日は暴風雨だったため延期されたためです。

 甲板上では、小楽隊が音楽を流しつづけていましたが、それは「極メテ野鄙(やひ)、聞クニ足ラズ。」肉饅頭、焼鳥、蒸餅の類がサービスされましたが、これも「臭気鼻ヲ衝(つ)キ予輩ノ口(くち)ニ合(あわ)ズ」でした。ただ「酒一壺アリ。ビールト云フ。一喫ス。」すると、これは「苦味ナレドモ口ヲ湿スニ足ル」と、ビールだけはそう悪くはなかったようです。

 初めて口にしたビールで、いくらかは酔心地で夕刻の海を眺めれば、久し振りに雲は晴れて細い上弦の月がのぼっていました。「四顧紗茫(しこびょうぼう)、其絶景言フベカラズ。」----福沢諭吉は数年後、ビールの功徳として「胸隔(きようかく)ヲ開ク為二妙ナリ」と書いていますが、あるいはその作用がこのときの玉虫左太夫にも及んでいたのでしょう。

 また、文久二年(1862)年六月十八日、幕府派遣の第一回のオランダ留学生一行が品川沖を出帆しました。この一行は、内田恒次郎(団長格)、西周助、津田真一郎、榎本釜次郎、赤松大三郎、沢太郎左衛門ら士分と職方(しょくかた=技術者(船の操作、大砲の鋳造、測量器械の製造、造船術、鍛冶術などの実技を習得すること))の合せて十六名でした。この中の西周助(後の西 周(あまね))は、その著書『西家譜略抄』に次のように記録しています。

 「此地常ニ暑炎、而シテ氷ヲカリホルニアヨリ購入ス。晩餐、之ヲ麦酒内ニ投ジテ涼飲ヲ取ル。快甚シ。余、素(モト)ヨリ酒ヲ嗜(タシナ)ム。麦酒モ亦人ニ勝(マサ)ルコト一層、是(ココ)ニ至リ蘭医厳ニ之ヲ禁ズ。」

 この記録は、品川を出帆した一行が、バタビア(インドネシアの首都ジャカルタのオランダ領時代の呼称)の近くで船が暗礁に乗り上げ遭難し、救助された後、バタビアのホテルで書いたものです。

 ビールのオンザロックは、この一行にとってまさに天来の甘露であったことでしょう。まして氷がカリフォルニアからの輸入品となれば、当時としては大変贅沢な文明的行為でした。酒好きの西は病み上がりなのに人一倍飲んで、医者に止められてしまったというのです。

 幕末の大君(タイクン=将軍)の使節や留学生たちは、欧米文化と接触した途端、ビールを飲み始めています。それも「大変美味しい」、と言っています。

2.作り始め

   嘉永六(1853)年、摂州三田の蘭学医川本幸民の手によってドイツの醸造専門書を科学的に正しく解読され、これを基にビールを試験製造したとの記録があります。これが日本での最初のビール製造です。しかし、「異国の飲み物」は上手に醸造することが困難だったらしく、また殺菌処理の方法も確立していなかったため大概は腐ってしまい飲み物となるまでには至らなかったようです。
 なお、川本幸民はドイツ語のChemie(英語のChmistry)に「化学」の訳語を与えた人で、当時の日本を代表する学者でした。

 ビール醸造所による本格的な製造は、明治2(1869)年、横浜の山手天沼に設立されたスプリング・バレイ・ブリュアリーが最初になります。この会社はウイリアム・コープランド(ノルウェー出身のアメリカ人。ドイツ人技師から醸造技術を習得)により設立され、そのビールは下面発酵酵母によるバイエルンタイプのものであったようです。

 日本人最初のものは明治5(1872)年、渋谷庄三朗が大阪堂島で醸造会社(社名:渋谷麦酒)を興しています。ただし、醸造技師はアメリカ人(フルスト)でした。明治6(1873)年、甲府で野口正章(コープランドの弟子(?))が「三ッ鱗麦酒」を醸造しています。また、明治10(1877)年、金沢三右ェ門が桜田麦酒(所在地:東京)を設立し、「サクラダビール」を売り出しています。一方明治9(1876)年には、北海道で開拓使によりビール醸造(官営)が始められています。

 この様な状況となることが予想される記録が残っています。それは、明治四(1871)年末から同六年九月まで、一年十ヶ月に渉ってアメリカ、ヨーロッパ諸国を歴訪した岩倉使節団の随員、佐賀藩出身の漢学者久米邦武の筆による記録『特命全権大使米欧回覧実記』(明治十一年刊)にあります。

 この使節団は、岩倉具視を首席全権大使とし、大久保利通、木戸孝允・伊藤博文らが副使となり、配下に約四十五名のエリート官僚を擁したこの一行が、日本史上空前・絶後の、そして世界史止にも稀な、徹底して周密な西洋文明の研究と摂取のための大使節団であったことは、今ではよく知られています。

 一行は南北ドイツでもオランダ、ベルギー、オーストリアでも、「嵂穂(ホップ)」の栽培やビールの醸造・またその消費に注目し、それぞれ記事を残しています。ですが一番詳しく研究したのは「麦酒ノ醸造ハ欧洲第一タリ」と評するイギリスにおいてだつたようです。特に、明治五年(1872)年十月一日、イングランド中部巡覧の途中、スタッフォード州ボールトン市のオールソップ・ビールエ場を見学したときの記事は、素晴らしいものです。

 50エーカー(二十町歩)もの広さがあるという大工場を、その日使節団は、蒸気の軌道車で見て廻わりました。まずビヤ樽の製造、修復の工場や麦倉を、ついで大麦を篩いにかけ麦芽をつくる五階建ての工場を上から下へと見ました。「麦蘖(ばくけつ)」を乾燥させ、粉にし、熱湯を注いで攪拌(かくはん)する大規模な車仕掛けの部分も覗きました。その「麦精湯」にホツプを入れ、大樽に移して沸醸させる工程も詳細に記録しています。

 「此ニ於テ酒気ヲ醸(かもか)シ、満面二泡ヲ噴キ、其烈ナルコト嗅(か)ケハ顔ヲ刺シ、燭ヲ下セハ即チ滅ス」と久米は書いています。熱い工場から外に出て、ホップの倉庫も、一万樽を収めているという水力利用の酒倉も見学しました。そのほとんどが来月中には諸外国に輸出され、日本にも送られるという話でもありました。

 この盛大な醸造工場の活動を見て久米は、考えました。
 「飲料ハ、国民ノ開明富饒(ふじよう)ナルニ従ヒ、益(すますす)精芙ヲ好ムモノナリ、故二飲料ノ消費高ニテ、国ノ開化ヲ証スルト謂フ説モアル如ク、現今ニテモ、欧洲二飲料ノ消費ハ、其高実二莫大ナリ。」「穀肉ノ類ハ、営業力(=活動力)ヲ生スルノ元品ニテ、飲料ハ快楽ヲ媒介スル物品タリ、営業ヲ務ムルハ、快楽ヲ得ント欲スル所ナリ、国ノ開明富饒ナルニ従ヒ、飲料ノ消費ヲ増加スルハ、亦白然ノ理ナリ。」

 この飲酒文明論を着想した久米の眼は、当然祖国日本へと帰って行きます。醸造酒という点では「日本ノ酒モ、亦『ビール』ノ一種」ではないか。
「日本ノ酒ハ麹(こうじ)ヲ和シテ醸ス、醸法頗ル高尚二属ス、只(ただ)未夕欧洲人ノ嗜好ヲ生セサルノミ、飲料ハ開化二従ヒ進ミ、異味ヲ好ムハ人ノ通慾ナレハ、今ヨリ其醸法ヲ慎精ニシ、貿易ノ道ヲ得ハ、必ス一箇ノ輸出物トナラン。」「醸造術ハ、日本ノ長技二属ス、農産ヲ製作(=加工)シ、醸造品トナシテ輸出スルハ、尤(もつとも)国産倍殖ノ眼目ヲ得タルモノト謂フヘシ。」

 イギリスのビール工場の忙しい現場に立って、明治の指導者たちは、深く日本の醸造文化の特質と、その将来の殖産興業への展開の可能性とを考えたものです。そしてこのときから始まった模索と摂取と工夫が実って、今日の日本は、この使節団の夢と野望をほとんど実現するにいたったと言えるのです。

 日本のビールの作りが官民を問わない意欲であったが故に、明治2年~10年の間に5社も設立されています。やはり明治のはじめはビール製造の面でも、「文明開化の音」が高らかに鳴り響いていたのです。 遣米使節や欧米への留学生の人達が初めて口にしてから、14~5年後にはその製造を始めたことになります。
             

3.ビールとペール

   現在「ビール」と呼んでいる飲料が、我が国ではどの様に呼ばれたかです。

 やはり、最初はオランダ語から入り、「ビール」と呼ばれました。
 江戸で蘭学が興ったのは、杉田玄白らが明和八(1771)年、小塚原で刑死者の解剖に立会い、オランダの解剖書と照し合せ、その正確さに驚いて翻訳に着手したことから始まりました。三年を費して『解体新書』が成立しましたが、この翻訳作業に加わった桂川甫周の弟で、戯作者、狂歌師の森羅亭万象こと、森島中良が、十八世紀末、寛政十(1798)年『蛮語箋』を著しました。
 これは、二千語ほどの日本語にオランダ語を片仮名で記した単語集で、「飲食」の部に次のように出ています。

  麦酒   ビール   焼酒   ブランドウェイン
とあります。

 この単語集は、オランダ語を仮名だけで記しているので、不便であるとして嘉永元(1848)年、蘭学者の箕作阮甫(みつくりげんぽ)は、原語の綴りを載せ、会話文も加えて『改正増補 蛮語箋』を刊行しました。そこには、
  麦酒 bier ビール   焼酒 brandwijn ブランドウェイン
となっています。

 また、オランダ商館長ズーフは、戦争(ヨーロッパで起こったナポレオン戦争)で便船が途絶えたため、19年間日本に留まりましたが、その間にオランダ語-日本語の辞書を編纂し、その後、長崎の通詞たちが校訂を続け、天保四(1833)年に完成しました。オランダ、ハルマ出版社のオランダ語-フンス語辞書を元にしたので『ズーフ・ハルマ』と呼ばれ、11万語の大辞書で、ビール関係の語が30近く載っています。そのいくつかを挙げると、

  bier 大麦ト「ホップ」二テ拵(こしら)ヘタル呑(のみ)モノ
dun bier,of klein bier 薄キ「ビール」
bier bank 「ビール」屋の床几(しょうぎ)
「ビール」ヲ呑二来ルモノノ腰ヲカクル
bier glas 「ビール」呑コツプ 又水呑コップ、
又猪口(ちょく)コップ
となっています。

一方、英語での呼び方はどうでか、です。

 日本人が初めて書いた英語の会話書・辞書では、"Beer" の発音に”ベール”と仮名を付けています。
 「フェートン号事件」《本誌第57号「ナポレオン戦争の余波ついて」をご参照下さい》から得た教訓として、幕府は長崎の通詞たちに英語の習得を命じました。通詞たちは、出島駐在中のオランダ人についてこれを学び、3年後の文化8(1811)年に単語・会話を集めた『諳厄利亜興学小筌(あんげりあこうがくしょうせん)』を完成させ、更に文化11(1814)年には、六千語を集めた英和辞書『諳厄利亜語林大成』を書き上げています。英語学習の一つの成果として、この辞書が完成したことになります。

この中にビールに関係する言葉が二つあります。
 
  Beer ベール 麦酒
Mug ミュグ 麦酒壺

 オランダ語では "e" が二つ並ぶと、「エー」発音するので、これにつられて和蘭通詞たちは、"Beer"に”ベール”と仮名を振ったのです。鎖国の時代、生の英語に接する機会はなかったですから、当然の結果であったと思われます。
 このことは40年後の嘉永七(1854)年に、フランス語、英語、オランダ語の載せた最初の出版書『三語便覧』でも、同じことが繰返されています。

  フランスコトパ エゲレスコトパ ヲランダコトバ
仏蘭西語 英傑列語 和蘭語
ムギサケ ビーレ ペール ビール
麦酒 biere beer bier
ウスキムギサケ ペチツテビーレ チンベール ヂユンビール
薄麦酒 petite biere thin beer dun bier
キツヨキムキサケ ホルテビーレ ストロングベール ステルクビール
鋭烈麦酒 forte biere strong beer sterk bier
セウチウ エァユドヒン ブランデイ ブランテウヰン
焼酒 eae d vin brandy brandewijn

 英和辞典で、"Beer" が初めてビールと発音されるのは、文久2(1861)年刊行された『和英対訳袖珍辞書』によるものです。
 約47年間英語のビールは、ベールでした。 <<これ、「トレビアの泉」(?)>>

 以下は、ビールに纏わる話です。

4.王冠

   記録によれば、ビールの瓶詰めが始まったのは、1553年、イギリスのエール・ビールからであったとのことです。この時、その栓に使われていたのがコルクでした。

 ワインのコルク栓を上手に取れず、ビンの中にコルクが浮かんでいるワインを何度か飲んだことがありますが、同様なことがビールの場合でもあったようです。この場合、上手に抜けないと泡が吹き出し大騒ぎになってしまいました。酒席にビールが出始めた頃、宴席が泡だらけになることが多く、着物を汚されてしまう仲居さんたちは、ビールを大変嫌っていたということです。

 ビンに栓をする時でも、抜く時にも苦労していたコルク栓に替わる王冠(王冠という言い方は、このキャップをクラウンと名づけられていたことによります)が発明されたのは、1892年、イギリスのウイリアム・ペインターによるものでした。
キャップ裏側にコルクを貼付けビンとの密着度を保つという工夫がこの発明の優れているところです。しかし、ビンの口径にバラツキがあることや、密封の技術が確立されるまでには時間が必要でした。
 初期のものにはビンと王冠の隙間から泡が吹き出したり、運送中に液漏れしたり、中身が腐敗したりといった事故がかなりあったとのことですし、ごく最近まで起こっていました。

 技術移転の指導で中国東北部に滞在していた、1980年代中頃の夏の体験です。
 滞在中の朝食は、ホテルのレストランで済ませていましたが、昼食、夕食は会社の食堂を利用していました。
 この食堂の料理の味付けは、やや塩辛かったのですがメリハリが利いていて、小生の口に合い、大変美味しいと感じていました。そして、食事の際には、ビールを必ず飲んでいました。
 このビールは、地元の製造会社のもの(格好良くいえば、地ビール)でしたが、我々の口には今一つで、冷やしているといっても、水道水の流水で冷やしているのですから、冷え方も今一つです。当時、半国営企業とはいえ、会社の食堂に冷蔵庫ありませんでした。
 そんなある日の昼食のビールをコップに注いでくれたのですが、何やら白く濁っているのです。ビンの王冠を取った時(栓を抜いた時)、音もせず簡単に取れたような気がしたので「変だな」と思っていた矢先です。
 口に持ってきた時、奇妙な匂いが鼻を突きました。腐っていたのです。原因はキャップの密閉度が悪かったのです。

 「そうか。技術指導に来ている意味の一つは、このことか。」と思い、何やら納得し、指導に熱が入ってしまったことを思い出します。

 そして、昨年末、ここを訪問しました。あれから20年近くも経っているのですから、全てが激変していました。技術移転をした会社も変わっていましたが、ビール事情も変わっていました。ビール醸造企業の多くも外国企業と技術提携をしているとのことで、ビールの味、ビンの形状、ラベルなど様変わりしていました。

5.アルトビール

 本誌の会員には西ドイツ(当時)のハンブルクやデュッセルドルフに駐在経験を持つ方がおられます。
 そしてデュッセルドルフと言えば、ここの特産ビールで「アルト」と言うのがあります。小生も出張の際、案内されてこれを喫したことがあるのですが、口に含んだ時の香りは、日本のビールにはないものだと感じたことがあります。

 『世界のビール案内』(著者;マイケル・ジャクソン、訳;巽かおり、発行;晶文社出版)の中にこのビールに関する記述があります。この部分を転写しますのでご覧下さい。

デュッセルドルフとアルトビール

 北ドイツのデュッセルドルフ特産の名高い特製ビールといえば「アルトビール」だ。アルトという語は英語のオールドをさし、「古い昔から」という意味で、ドイツでは特製ビールの種類の一つを示したラベルの中で使用される。「アルト」が固有名詞として、それ自身で使われる場合はたいてい、このデュツセルドルフ周辺地域でつくられる濃い赤銅色の上面発酵のビールのことをいう。アルトといわれるほどに、このタイプのビールは淡色の下面発酵スタイル以前のビールであることのようだ。 

 アルトビールは、ベルギーやイギリスのエールに最も近いビールだ。そして典型的なアルトビールは軽めから中間ほどのコクと十分な苦味を持っている。100%麦芽の仕込みと冷蔵期間との組み合わせが、ベルギーやイギリスのエール・スタイルのビールよりも滑らかであり、澄んでいて、ほんのりとした果実風味を引き出す。多種多様のホツプを使うことと、ドイツ流のそのホップの添加法などによって、芳香とかなりの苦味を出すが、イギリスのエールほどの酸味は出てない。

 このスタイルの中で良質なアルトビールといわれるのは、エキス12度か、それよりちょっと越えるくらいで、アルコール分は4.5~4.7%くらい。色度は、約35 EBC、苦味30~50BUの範囲。

 最もよく出回っているアルトビールはハンネン醸造所のハンネン・アルトだ。ハンネン醸造所はデュッセルドルフから西へ30kmほど行ったメンヘングラートバハという都市にある。このハンネン・アルトはソフトで均整のとれたビールだ。またデュッセルドルフ郊外のイッスムという街にあるデーベルス醸造所のコクのあるデーベルスはアルトビールでは最もポピュラーなビールだ。その他にはクレフエルドのわずかに濃いレーナニア、そしてデュッセルドルフ製では苦味は強いが濃度の軽いフランケンハイム、麦芽風味で辛口のシュレッサーや果実風味のデュッセルなどがある。 

 これらの比較的大きなメジャーな醸造所でつくられるスタイルに対して、熱狂的なファンの「おすすめの一流品」は、デュッセルドルフの自家醸造のブルーパブでつくられるアルトビールだ。このようなパブは四つあるが、そのうちの三軒はアルトシュタット(旧市街)と呼ばれるのにふさわしいオールド・タウンにある。四軒目のフェルディナンド・シュマッハーは町の中心地の近代的な雰囲気のある新しい地区オスト通り123番地にある。その位置にもかかわらずシュマッハーには「古い世界」の趣と安らぎがあり、一日の終わりに、疲れをいやすのにふさわしい快適な場所になっている。シュマッハーで自家醸造されるアルトビールは濃度は最も軽めであるが麦芽風味は最も濃厚である。

アルトシュタツトの三つのブルーパブのまず一軒目は、ボルカー通り43番地にあるツム・シュルッセル。この店の部屋からは醸造所の仕込槽がはっきりとみえる。全体にコーヒーショップのような雰囲気がある。ここには少し酸味を帯びた軽く麦芽香のするアルトビールがある。このアルトビールの成功で似通ったアルトビールを生産するために独立した、ガッツヴァイラー醸造所をスタートさせることができた。

 次のラッティンガー通り28番地にあるフェックスヒェン醸造所は大きなレストランがあるブルーパブで、馴染みの客が小さなテーブルに肩を寄せあって集まり温かい豚肉料理を食べながらビールを飲みかわしている。

 フェックスヒェンの後ろに小さな塔の醸造所がある。そこのビールは素晴らしく均整がとれていて苦味のアクセントがうまく調和しているビールである。
ベルガー通り1番地にあるツム・ユーリゲは四つの醸造所の中で量も有名である。いくつもの部屋が順に連結されたような形の家屋で、その中の二つは美しい鋼製の醸造ハウスになっている。どの部屋もセンスのよいインテリアが施され、上品な年配の女性や、学生や、あるいはロックミュージシャンかファッションモデルがいても決しておかしくないような醸造所っぽくないところだ。ツム・ユーリゲでは軽食だけしか出していないが、自家製ソーセージやにおいの強いマインツァーチーズをビールに漬けたマリネのようなものをつくっている。ここでのアルトビールはすべてのアルトビールの中で最も苦味があるおいしいビールである。

 四つの醸造パブのすべてが、特別な場合にのみつくるという、わずかに工キス度の高くて辛口のビールを一仕込(ひとしこみ)だけつくるという伝統を守っている。これはシュマッハー醸造所ではラツエンビールと呼び、他の醸造所ではシュティケ=(秘密)ビールと呼んでいる。これらのシークレツト(秘密)ビールはお得意様に感謝の気持を込めて、通常のビールと同じ価格で提供される。このビールが提供される場合はいつも中身のビールが底をつくまでの一口か二日間中出される。それぞれの醸造所は年に二回か四回のシークレツトビール用に特別なカレンダーを持っている。その日付は年が変わるたびにわずかに変化するが、たいていは仕事の忙しくない月にある。

 デュツセルドルフ製のアルトビールに似ていて、それよりもわずかにエキス度が高く濃色で苦味は少し軽いというアルトビールが、ハノーバーのリンデナー・ギルド醸造所でつくられている。この醸造所はもともとギルドが運営する公営醸造所だったことからこの名前がついたが、このアルトビールは偉大なハノーバーのコードフブロイハンという醸造人にちなんで名付けられたブロイハン・アルトだ。

 またウェストファリアの都であるミュンスターにあるピンクス・ミュラー醸造所では、金色で40%の小麦から成るマイシェでつくられた、わずかに乳酸を感じる、デュッセルドルフ製とはまったく違うアルトビールがつくられている。

 ある自家醸造の特製アルトビールに、砂糖漬けのさいの目に切った果物を添加しているものもある。夏にはイチゴや桃が使われ、冬にはたいていオレンジが使われる。この飲み物はずんぐりとした円筒のグラスで出される。このグラスはアルトビールが飲まれる所で必ず登場するグラスである。

 如何でしょうか。この本は1988年に発行されたものを翻訳したものですので、今から15~16年前の状況を書いていることにまります。当時の雰囲気を伝えてくれていると思います。


6.あとがき

 

『特命全権大使米欧回覧実記』では、イギリスのビール事情について詳しく書いていますが、このことは、当時の世界情勢を反映したのもでした。日本のビール黎明期は、エール・イギリス式とラガー・ドイツ式が紹介され、輸入されていました。ですから初期にはこの二つが併存していたのです。この様な状況から我々の先人は、最終的にラガー・ドイツ式(下面発酵酵母)を選択したのです。エール・イギリス式(上面発酵酵母)に比べ、手間とコストがかかるドイツ式を選んだのは、日本人の香味のスジの良い感覚であり、先進国の誘導によらない独自の判断だったのです。

ところで、日本人のビール(発泡酒も含みます)の消費量を調べてみました。2002年のデータです。(キリンビール調査)
1人当たり消費量は、大瓶換算(1本=633ml)で、前年より1.3本少ない85.9本で、25位です。
総消費量は、対前年比ー2.6%の693.0万kl で世界第5位、一位はアメリカの2,382.0万kl で日本の約3・4倍です。2位が中国、ドイツは3位でした。また、1人当たり消費量のトップはチェコの246本で、日本の約2・9倍です。2位はアイルランドで、以下ドイツ、オーストリア、イギリス、デンマークとやはり欧州諸国が上位を占めています。

 長々と書いてしまい、ご迷惑なことです。
となれば、疲れ直しに「ググッ」と一杯。

 今回は、この辺りで失礼を!!!。

参考図書

ビールと日本人 キリンビール編 三省堂
酒の科学 野尾 正昭 講談社ブルーバックス
ことばで探る食の文化詩 内村 政夫 八坂書房